外灘(ワイタン)バンド地区 中山東一路沿いの風景は古い風景が失われる上海にあって趣がある地域。浦東地区の高層ビル街も刺激的であるが浦東側から見るバンドは何かロマンを感じて個人的には数段趣があってよいと思う。世界遺産が無い上海において唯一候補といえる地域だとか
昔の上海租界地区と呼ばれる地域で19世紀後半から20世紀前半に建設された西洋式建築物が建ち並んでおり観光地や高級ブティックやレストランも並んでいる。
黄浦江を見渡すこの地区に歴史的にも有名な伝説的なホテルが2つある。和平飯店と上海大廈だ。和平飯店は1929年上海大廈は1934年と歴史は古い
先日の出張で上海大廈にお伺いして総経理や料理長さんなどとお打ち合わせさせていただく機会に恵まれた
上海大廈では以前 萬来鍋や豆乳などを購入いただきレストランでできたて豆腐を宿泊客などに提供していただいていた。
震災以降原料の豆乳が輸出ができなくなり多大なご迷惑をおかけしてしまった。
今回はそのお詫びも兼ねて訪問した。地元中京テレビさんお密着取材もあり撮影も快く了解してくれた。
丁寧に事情を説明して現在の供給体制をご説明したところ再度メニューに検討してもらえるようになった。
原発事故以降の諸問題にも理解を示してくれた。ありがたい話である
もう一つ上海でも有名なホテルで政府系の高官なども宿泊する虹橋迎賓館にも訪問し料理長と打ち合わせすることができた。こちらも鍋や豆乳をご採用いただいていたが震災以降ご迷惑をおかけしてしまった
お詫びと合わせて新しいメニュー提案などをしたところ大変気に入ってくれた。鍋のメニュー以外にもデザートや他の用途でも提案していくことになりこちらも再開の見通しがでてきた。
他にも5つ星ホテルを中心に採用していただいた有名ホテルが上海市内にはいくつかある。これから地道にまわって信頼回復に向けて頑張るしかない
思えば輸出が停止してから商標ブローカーに先行登録されたりコピー品などの問題が発生し悩まされ続けてきた。まさに中国市場は「泣き面に蜂」の状態であった。
いつまでの泣き言をいっていてもはじまらない。ピンチをチャンスに!
明日から今月2度目の中国出張上海、福建、香港と周る予定、
ビジネスモデルを立て直して再挑戦だ。
先月インターナショナルホテル&フードショー(IRFS)出展のためNYに出張した。
昨年のIRFS以来1年ぶりのNYだ。
数年前JETRO NYが中心となってジャパンパブースを設置してオールジャパンでPRする方法を打ち出した。
相乗効果もあってIRFSのジャパンブースは年々来場者も増えていった。
ホテルやレストラン関係者などB to Bの見本市であるがプロも日本食に対し強い関心を持っている
当社ではこのジャパンブースができる前から出展した経験もあり、関心の高まりを肌で感じてきた。
昨年震災前に開催されIRFSのジャパンブースは空前の人が訪れ見本市が賑わっていた。
今年はJETROではなくJROが主体となりジャパンブースを開催した。
NY在住の知人から連絡があり参加することにした。
IRFS開催に先駆けて震災支援の感謝イベントを兼ねてグランドセントラルでJAPAN WEEKが開催されいた。
開催前お付き合いさせていただいているお店も出店していたのでJAPAN WEEKに行ってみた。グラセンという立地条件もあり多くの人でにぎわっていた。
今回IRFS開催前 正直震災の影響はどの程度あるのか、少し不安だった。
ふたを開けると予想以上に多くの人が訪れてくれて不安は吹き飛び、試食や対応に追われた。
ジャパンブースでは連日セミナーを開催、名だたる有名店の方々が日本食のすばらすさを魅力的にプレゼンしていた。
豆腐の伝道師を標榜する私としてもよい機会と 豆腐など大豆食品の話などをつたない英語を交えながらお話させていただいた。
おかげさまで立ち見も出るほど盛況で日本の大豆食品や健康志向の高まりを強く感じることができた。
手作り豆腐体験も盛り上がってくれてひと安心。
はじめて出展した頃は右も左も分からず なかなか成果もあがらなかった。
「食を通じて世界の人たちの健康と平和に貢献する」という経営理念の基、「豆腐料理をNYで浸透さる」と大風呂敷を広げたことを少し後悔していた。
「零細企業ではやっぱり無理かな」と何度も諦めかけた。
そのうちに採用してくれるお店が徐々にでてきて [できたての自家製豆腐提供」というコンセプトはNYで少しづつではあるが受け入れらるようになってきた。
顧客は日本食レストランが中心にであるが、気がつけば納入実績は数十軒に広がった。
ご採用いただいているお客様をいくつかまわり いろいろありがたいお話を聞かせていただいた。
展示会でもいろいろヒントを得ることができた。
昨年震災の影響で輸出ができなくなった国、大幅に減った国などがいくつかあり我々も大きな打撃を受けた。
規制強化や円高、インポーターの検査負担増などで依然日本食材の輸出は厳しい状況にある。
この一年辛酸をなめまくってきただけにとても勇気をいただける今回の出張になった。
次のステップに進む課題もみつかった。「継続は力なり」 これからが正念場だ。
前回のブログで紹介させていただいた黒川温泉のふもと旅館さんの女将 松崎久美子さん。
ふもと旅館さんは15の温泉と食通の女将さんのこだわりの宿として超有名店である。
黒川温泉は顧客満足も高く、大人に人気のある有名な温泉だが女将さんが嫁いだ1980年頃は日本はおろか九州でもほとんど無名な地図帳にも名前ものっていないほどの温泉だったらしい
ふもと旅館さんとのお付き合いは女将さんが十数年前にビッグサイトの国際ホテルレストランショー(HCJ)で当社のブースに寄っていただいてからのご縁。
できたて豆腐を試食して気に入っていただき すぐに小型卓上豆腐機械の豆クックを導入していただいた。
食通の女将さんだけに味には厳しいが気に入ったら行動はすこぶる速い。
これ以来、十数年原料など長くお取引いただいている。
いいものだからとほかの黒川温泉の旅館のお客さんもご紹介いただいた。
この女将さんの考えがとても新鮮だった。
この時黒川温泉の女将の会というのも初めて知り、とても興味をもった。
先にも述べたように地図帳にも載らないような無名の黒川温泉を多くの人に知ってもらうために
地域を意識し、黒川温泉の魅力を持たせるために女将の会を結成し、切磋琢磨して
黒川温泉の全体の価値や顧客満足度の向上のために行動し大きな貢献されてきた。
入湯手形というアイデア考え「日本一の露店風呂めぐり」として黒川温泉の女将たちが連携した結果
黒川温泉の名前はいっきに全国に広がっていった。
地域全体を意識したPRの発想や取り組みを勉強させてもらい、いろいろ参考にさせていただいた。
先日お会いした時には「立派に頑張っているね」とほめていただきとても嬉しかった。
黒川温泉の取り組みはその後全国で注目され、いろいろな形でアレンジされ普及している。
松崎さんたち女将の会が日本の温泉に与えて影響は大きい。
HCJ2012に今年も出展した。
十数年前から連続して出展している。
「豆クック」という小型卓上豆腐製造装置の開発がきかっけだ。
大型の豆腐製造装置の分野で他メーカーに水をあけられ、地方の豆腐機器メーカーとして生き残りをかけて作った機械であった。
もともとは大阪の知人らと手作りの卓上豆腐製造装置でできたてのおいしい豆腐をスーパーなどで作ったら受けるのではないかといったことではじめたが思っていたように普及しなかった。
豆腐の価格も下落の一途を進んでおりインストア型の豆腐ショップはどんどんなくなっていっていた。
独創性を活かしてニッチトップの大田区の町工場の記事に憧れ,他があまりやっていない分野でトップを目指そうと考え改良を加えた。
初期モデルを更に小型化して異分野でも使ってもらえそうな装置にして、HCJ(当時は国際ホテルレストランショー単独の展示会だったかも)に思い切って出展してみた。
その頃豆腐メーカー以外には得意先もほとんどなく異分野への挑戦は不安もあった。
「とりあえあずやってみよう。、2~3回くらい出しててダメなら考えよう」と心に決めて出展した。
気がつけば十数年連続して出展していた。
先日の出展でとても嬉しいことがあった。黒川温泉のふもと旅館の女将さんであるの松崎さんがブースの来てくれ いろいろ昔話に花が咲いた。
HCJに出展したばかりころ、豆クックで作った豆腐をひたすら試食でだしていた。
そこに女将さんが通りかかり できたての豆腐を試食して味をとても気に入ってくれ すぐに機械を導入していただいた。
おまけに黒川温泉のほかのホテルのお客さんも紹介していただいた。
ライバルの施設を紹介することなど通常はありえないと思っていたが 黒川温泉のことを知るととてもよく理解できた。
以前は無名に近い黒川温泉で松崎さんは女将の会を結成し、地域が連携して黒川温泉のお風呂めぐりなど新しい企画をうみだし
黒川温泉を全国でも超有名な温泉地として強いブランドアイデンティティを構築した女将である。
松崎さんには地域を意識した情報発信などいろいろなことを勉強させていただいた。
これらについては次回でも書くつもりである
この時松崎さんとの出会いがなかったらひょっとするとHCJ出展を止めていたかもわからない。
止めていたら萬来鍋の開発もなかっただろう。
ふもと旅館さんとは現在でも継続して原料や資材など長くお取引いただいている。
また今年も新たな出会いをいただいた。よいご縁をいただいたことに感謝。
「いつも楽しそうにやっているので悩みとかないでしょ」と言われることがよくある。自分ではそうでもないと思うのだが・・・
数年前に読んだある本に「自分ではコントロールできる問題か判断してできない問題は割り切り自分ができることに集中するべきである」といった内容のことが書いてあった。
すごく腹にはまった。
問題に対しては自力で対応可能かどうか考えて、どうしょうもないことはあまり深く考えない習慣をつけるようにしたらずいぶん気が楽になった。
例えば地下鉄が遅れていたとする。
いくら悩んでみても腹を立てて文句を言っても電車が早くきてくれる事はない。
自力で解決できないことは悩んでも結果は変わらない。
遅れて困るなら少し歩いて別の地下鉄にのるとかタクシーで移動するなど自力でできることを考える。
結構自分で解決できないことに悩み無駄なエネルギーを使っていることが多いことが分かった。
三重県の四日市に「日永うちわ」という伝統品がある。
縁あって昨年少し海外の展開のお手伝いさせていただいていた。
日永うちわは四日市の日永地区で作られるうちわで、300年以上の歴史を持つ。
日永は江戸時代京都に向かう東海道とお伊勢参りに向かう伊勢路の分岐点の宿場町として賑わっていた。
当時街道には10数軒の製造業者がり、お伊勢参りに行く途中に気に入った柄を注文し、帰りに再び立ち寄り持ち帰ったらしい。
明治になって鉄道の開通で交通の流れが変わり、製造者もなくなり現在では稲藤さん1軒になってしまった。
扇風機、クーラーの普及でうちわの需要もなくなる中、ギフト用装飾うちわとして伝統を守り続けている。
稲藤さんとは昔からカレンダーなどを作っていただいており中小企業家同友会などの活動を含め長いお付き合いだ。
伝統的な竹を使ったうちわは概ね次の三種類があるらしい。
大きな竹を平らに削って作った「平柄(ひらえ)」のものと細い竹を放射状に並べて後から柄を取り付けた「挿柄(さしえ)」と細い丸い竹をそのまま60本程度に分割した一本ものの「丸柄(まるえ)」だ。
平柄は丸亀あたり、挿絵は京都、丸柄は日永うちわの特徴らしい。
今年、三重県が主催する「お見事企業グランプリ」に稲藤さんの日永うちわと当社の萬来鍋が選ばれた。
この時「香るうちわ」「消臭うちわ」「虫除けうちわ」という新商品を説明してもらった。
この新商品は柄の中にいろいろなアロマオイルを入れるボールを仕込んであり、扇ぐと香りがするアイデア商品だ。
丸柄のうちわでないとアロマボールを仕込むことができず、特徴を最大限に活かしている。
稲藤さんでは伝統産品に新たな知恵や工夫を凝らして新たな販路開拓に挑戦している。
稲藤さんから海外の販路開拓について相談を受けて ベルギーのビノワの割橋さんのお力添えでヨーロッパでも紹介していただいた。
これをきっかけに今後もいろいろ海外に視野を広げていきたいとのこと
頑張れ日永うちわ
昨晩中小企業家同友会のグループ会で農商工連携でもお世話になっている
松本先生のミャンマー研究のセミナーがった。四日市大学の岡先生やミャンマーの学生さん
も参加しており セミナー終了後学生さんたちと食事やお酒を一緒した。
昨年11月にも四日市大学の経済学部で講演させていただく機会があった。
あまり授業にもでていなかった私が経済学部の講演とはおこがましいが岡先生のご縁でお受けした。
余談であるが岡先生とは先日NGP横丁という取り組みでお互いの娘同士が親友だったことが偶然判明した。
この講演のあとのゼミの活動にも参加させていただきに学生時代の雰囲気を思い出した
最近なぜか若い学生さんと交流する機会が増え、自分の学生時代の経済学ことを少し思い出してみた。
私が学生時代だった80年代は「ジャパンアズナンバーワン」がベストセラーになるなど日本的経営の優位性が賞賛されていた時代である。
二十数年前の話であるがずいぶんこの間世の中も変わった
ゼミでIBMの企業研究を行ったことがある。
当時IBMが世界のコンピュータ業界を牛耳っていた。
IBMに挑んだ企業はことごとく叩きのめされコンピュータ業界の巨人として君臨していた。
無敵を誇るIBM帝国を築いていた
日本ではNECや富士通など国産メーカーも頑張っており唯一例外的な市場だった。
ある程度市場規模があって企業間の競争や消費者の要求が厳しい日本は独自の競争力のある企業のが育つ環境があった。
IBMは圧倒的なシェアでその先何十年もその地位が揺らぐことはないといわれていた。
80年代パソコンに進出し大成功をおさめた。IBMは世界のトップシェアをNECも国内トップシェアを持っていた。
意外にもそれは長く続かずパソコン事業が大きく運命を変わることとなる。
IBMはパソコンの仕様をオープンにしたため(、しなければならなくなり)新規参入業者が次々に登場した。
90年代競争は一気に激化し、2004年についにパソコン事業をレノボに売却した。
80年代の隆盛を知る者にとって大きな衝撃であった。
人気機種もありこの選択には正直驚かされた。
現在トップシェアを持つHPもパソコン事業の切り離しを検討しているという記事が少し前にでていた。
トップ企業ですらパソコン事業の利益は薄くその恩恵を享受できないほどコモディティ化した産業になってしまった。
80年代超優良企業であったIBM帝国は以前の力を失い、代わりにインテルやマイクロソフトのような特定部品やソフトの会社がが大きな力をもつようになった。
IBMはパソコン事業を売却してB2Bのサービスに特化した戦略に切り替えた。
差別化が難しいパソコン業界において低価格品との競争がさらに激化しNECの市場シェアも低下し存在感が薄くなってきた。
世界でシェアをほとんどもっていないNECはレノボとの合弁会社設立に動いている。
事業存続を重視する日本的企業に比べIBMなど欧米の企業はかなり大胆でスピードも速い
戦略の違いが今後どう明暗を分けるかとても興味深い
人口や競争の面でも独自に強い企業を育てる強みのはずの日本の環境がいつのまにかガラパゴス化し弱みになっていたりもする。
学生時代学んだこと、エクセレントカンパニーの顔ぶれも時代とともに大きく変わった。
まさに諸行無常である。
このような時代に日本企業そして我々中小企業が存続、そして成長していく戦略はなにか
過去をふりかって学ぶことは多いとのではないかと思う
今年もいよいよ大晦日になり残すところ一日となった。
歳男であったが、今年も跳びはねた一年であった
上海、ニューヨーク、ソウル、大邱、台北、シンガポールその他諸々海外も相変わらず行った。
例年に比べ震災の関係もあり海外渡航は少なめであったが いろいろな意味で忙しい一年であった
震災や原発問題 為替など今年はまさに激動の年であった。
我々も大きく事業計画を立て直す必要にせまられた。
食品の輸出にとっても大きな重荷を一気に負うことなった。
しかしかがら、いろいろ見てみると隙間のようなニッチな市場ではピンチがチャンスに代わる場面のあった。
情報収集力の重要性をあらためて感じさせられた。
天災や経済の流れは自社の力ではどうすることもできない、自らができることに集中して道を切り開いていくことが肝要と心から感じさせられた
一度進めたプロジェクトを中止や変更するにはなかなか難しい、ここまでやってきたのだから、これまでの投資や苦労が無駄になる。もったいないなどという意識が働き「損切」をするというのは特に日本人は苦手な分野かもわからない。
実際、損切を決断することは口でいうほど容易ではない、自分たちがやってきたことはなにか意味があるはずだという心理も働く
やはりプロジェクトを進める前にどの程度までは許容するか具体的に決めておくとよいと言われている。
海外企業などと提携や合弁企業などを行う場合も結婚する前に必ず離婚条件を細かにきめてからすすめるべきであるといったお話を海外実績のある専門家からお伺いした。
今年は円高が進み国内の産業の空洞化が進むといった記事を多く目にする機会が多かった。
企業が海外展開を加速するのは国際競争力を強化するためであり、縮小する日本経済だけでは成長を続けることは難しいということが背景にあるからである。
為替の問題などを解決すればかなりの製造業が国内でも競争力を維持できると思う。雇用のためにも個人的にはなんとか円安に進んでほしいと考えている。
しかしながら企業の海外展開の流れはとめられない。
先日ある会合で 空洞化について話題になり意見を求められたことがあった。NHKの番組でも少しお話したが 企業の海外移転を前提にして移転後 空洞化を埋めるためにも何を残し 日本国内でどのような産業を新たに生み出していくかという発想が必要になると思う
それは行政だけでなく各企業が可及的速やかに考えるべき重要な課題となってきていると思う
あらためて日本経済のあるべき姿を真剣に考える必要があることを気づかされた一年になったのではないだろうか
今年も残り少なくなった。先月韓国に出張した際の画像を整理していたら
韓国の京尚北道の取引先を訪れた時の画像がでてきた。
工場視察をした後 地元の観光スポットにいった。
取引先が地元の観光開発にも尽力しており、なにか開発よいアイデアはないかということで
見に連れていったもらうことになった。
人口も2万人余りの農村部であるが 役場や郡の施設は立派な建物であった。
日本人に縁のある場所ということで「花本」という駅のある蒸気機関車用の給水塔に行った。
25m程度もある立派な建築物で、昔の日本人が作ったものらしい。
当然現在は使われていない。
以前はいろいろな地域にあったようだが現在韓国でも残っているのはほとんどないという。
日本に対するネガティブなイメージもあるからだろうか
しかしながらここでは観光資源として利用していた。
「花本」という駅名は 地元の開発委員長の話によると当時日本と韓国の融和を考え名づけられたらしい。(たぶんそういう説明だったと思う)
近くには日本人が建てた住居も残っていた。
昔の小学校になりそうな造りで確かに日本的な匂いのする佇まいであった。
次に韓国の古い住居を訪れた。当時の実力者の住居で現在も宿泊施設として使われているという。
昔はオンドルも温水式のパイプを敷き詰めたものではなく薪などを燃やした煙道を利用して床を温めていたことを知った。
庭の軒先に興味深いものが置いてあった。木製の豆腐用の型箱である。
地釜もあり日本の昔の豆腐作りの道具とよく似ている。
あらためて近い国であることがわかった。
この古い住居をでる時 なななんと「南川古宅」という石碑が入口にあった。
もしかして私の先祖の住居?
父方も母方も江戸時代までさかのぼっても日本人のはずだが・・・
三重県の一部地域では南川という苗字の人は結構いるが
もしかして南川の祖先は渡来人だったのだろうか?弥生時代だろうか大和朝廷のころか
いろいろ空想を広げたがよくよく聞くとどうも南川という人の家ということではないらしい
それにしてもあまりの偶然なので なにかのご縁と思い記念撮影
先日日経MJを読んでいたら宿泊無しの「ごはんだけホームステイ」という記事が載っていた。
宿泊がつきもののホームステイであるが最近は海外の旅行者を自宅に招き一緒に食事をする「ごはんだけホームステイ」が徐々に人気がでているらしい
「日本の家庭の雰囲気を味わいたい」という外国人旅行者と「宿泊はハードルが高いけど食事なら」と考える受け入れ側の気持ちが合致して小さな文化交流が広まりつつあると書いてあった。
私も取引先のはからいで先日韓国の田舎のりんご農家に招待していただき焼肉や松茸をたらふくご馳走になった。
異国の地で食卓に招かれ一緒に食事をするのはとても楽しい体験だった。
農家の方3世代そろっての食事。日本人が食卓にきて話をするといった体験もはじめてのようで 最初は少し緊張気味であったおばあさんや娘さん息子さんとも徐々に距離が小さくなっていった。
数時間の滞在でも一緒に食卓を囲むと小さな文化交流も満喫できる。
有名なレストランでの接待よりも貴重で新鮮であった。
「ごはんだけホームステイ」というホームビジット企画は外国人観光客集客にはかなり有効ではないかと思う
先日郡上の地域資源活用農商工連携セミナーでご一緒した㈱アスリックスの濱社長が外国人旅行者の集客の取組について興味深い説明されていていた。
距離が離れるほど旅行者は有名なところにしかいかないラケット効果というのがあるという
つまり遠方の顧客ほど有名な観光地にしか注目せず 例えば日本人ならフランスならパリとかイタリアならローマとかメジャーなところばかりに客が集中することをいうらしい
そこで能登の事例を紹介されていた。能登では人に注目し面白い人や取組の発掘しPRしたり外国人を民家の招待したりして小さな街でも沢山の米国人や台湾人などの外国人の集客に成功している事例だ。
2003年小泉首相の時に外国人旅行者を2010年までに1000万人にするというビジットジャパン事業がスタートした。
調べてみると521万人だった旅行客は徐々に増え08年で835万人まで増えていた。
09年はリーマンショックの影響で679万人に減少したが10年には861万人と26.8%も増えた。
惜しくも目標の1000万人は達成しなかったがキャンペーンの成果はかなりあったのではないかと思う
残念ながら今年は震災や円高の影響で10月まで3割減に推移しているらしく大きく落ち込むことが予想される。
人口減少やデフレで内需が期待できない分 地域や日本経済の活性化のためには外国から沢山きてもらう取り組みが必要だと思う。
フランスや先進諸国に比べて日本は海外の旅行者の取り込みについて大きく遅れている
ホームビジットで日本ファンを獲得する取り組みは能登の事例のように地方の外国人客の集客にかなり効果が期待できるのではないかと思う 実際日本人の生活を知りたい外国人も多い
このような取り組みが増えれば地域の活性化やビジネスチャンスの拡大につながる
観光庁は将来訪日外国人を3000万人にする計画で、2013年までの目標が1500万人という。
震災、為替などの問題も考えると目標値はかなり高いが単純に10人に1人が外国からお客さんよんでくれば1300万人位は達成する
頑張れ日本!目指せ観光立国