危機が生んだ理念とニッチトップ戦略
私がミナミ産業の社長に就任したのは92年28歳の時のことだ。ミナミ産業は父親と祖父が終戦の6年後、豆腐用の濾過布の販売をはじめた南川商店をベースに、68年に設立した会社である。若手の三代目社長(父が実質の創業者であるので二代目か)といえば順風満帆に聞こえるが全く逆で辛酸をなめ尽くした。
どん底で会社を引き継ぐことになるとは
前社長である父親はアイデアマンで高度成長の時、次々に新しい豆腐機械を開発し全国的に販売を広げていった。職人気質で頑固者。短気でもありお客さんや協力企業とも無用のトラブルを引き起こした。体制も整わないままに拡大したためクレームも続出し、社員も定着せず業績が低迷していった。加えて機械を製造委託していた協力会社が社員を引き抜き改良版の機械を販売する会社を設立するなど厳しい状況の中、他の飯を喰う間もなく大学卒業後すぐに入社した。
入社後当しばらくして切り盛りしていた従弟の役員が急逝するなどまさに存亡の危機。「あの会社はつぶれる」業界に噂が駆け巡り、社内も身内が多く空中分解しかけたところをまとめるために社長に就くことになった。
大口の契約!まさかの廃業勧告
社長就任後初年度黒字化するも翌年バブル崩壊の影響で投資に失敗した大口顧客が破綻するなど経営危機が続いた。社内の混乱をまとめきれず、身内の役員たちも取引先の協力を得て従業員を連れて別のライバル会社を作ってしまう。会社の信用は全くなくなってしまった。そんな中で東証一部上場企業から大型物件の受注に成功した。「これで立て直せる」意気揚々と契約書をもって資金調達に銀行を訪れたが「ほんとうに利益がでるのか」「豆腐業界の将来が不透明、おたくの会社も内紛が多いし、今後地方でメーカーとしてやっていけるのか」と融資を断られるだけでなく、最後は廃業まで勧められる有様であった。ぐっと歯を食いしばり悔しさに耐えた。受注した仕事は投げ出せない。仕入れ方法をすべて見直しコストダウンして乗り切った。悔しさをバネに「自動化・量産化」を目指して進めた大型機開発も父親である会長との意見が合わず委託先とのトラブルに発展し開発が頓挫。すべての問題を私が解決することで会長に経営からひいてもらい全責任を負った。
きっかけは、一枚の新聞の切り抜きだった
当時弱りきっていた私はある新聞記事を目にする。東京大田区の町工場が独創性で世界トップシェア製品を作っているという内容だった。父親が私の机の上に置いてくれた切抜きであった。衝撃が走った。大量生産では大企業にはかなわない。安く作るのは海外企業にはかなわない。「独創性をいかしてオンリーワンの技術でニッチトップを狙う」基本戦略がこの時固まった。自社の強みを真剣に考えた。自分の答えは大豆加工技術であった。
機械屋からの変換と企業理念が生まれた瞬間
豆は良質なタンパク質や栄養成分を含み、日本の食文化には欠かせないものである。また世界の食糧事情を考えても絶対必要なタンパク源。健康機能性もすばらしくまさに奇跡の食材、大豆の可能性を考えていくとどんどん頭の中で夢が広がった。こうして「食を通して世界の人たちの健康と平和に貢献する」会社の経営理念が生まれた。「食」という領域で価値を生む技術を開発し、世界に発信し続けることが我々企業の生命線になると考えている。